日々是憂日

日々是好日ー人生は好い日ばかりがつづいているかな?をちょっと逆転してみると見えてくる日々のことを綴る

「草の花」

福永武彦「草の花」を

改めて読んだけれど

昭和前期のあの凝縮された

知性の文章に触れると

この頃のややこしい文章が

軽薄でなんとも色あせて見える

と言えるほどには読んじゃいないけど

はなっから読む気が起こらないのは

なぜでしょうか。

「草の花」では

平気で文章の中にフランス語やドイツ語を

散りばめているけれど

けっして嫌味ではなく

あの旧制高校時代の

意気軒昂たる文体と

今は失われた知への冒険と

そして青春をかくほどまでに

謳歌し尽くして

主人公を聖なる孤独へと

到達させてしまった

この作品は

ドイツで思春期の子たちが

ヘッセの「車輪の下」を読む

ーー今はどうだかーー

ように

若者の聖書だったかもしれない。

けれど

今は「ハルキ」なのかしら。

人生の終わりを

目の前にしている老婆であってさえ

この青春の孤独の書を

読み直すと

滂沱の涙が溢れるのは

なぜ・・・